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フランシスコ会本部

2011年クリスマス・メッセージ

悲しみを取り除きなさい!

clip_image002親愛なる兄弟の皆さん。クリスマスは、インマヌエル、すなわち「神、私たちとともにいます」という祝日です。クリスマスは、肉となったみことばの祝日です。御子であることをやめることなく、私たちの兄弟となった (cf. 2Cel 198) 御子の祝日です。クリスマスは、平和を告げ知らせる 時です。「いと高き天においては、神に栄光、地においては、み心にかなう人々に平安」 (ルカ 2,14) とあります。またキリストは「私たちの平和」(エフェ 2,14 )だからです。クリスマスは、すべての人間にとってよい知らせです。愛の計り知れない情熱によりしらけた者も酔いしれます。そう です、クリスマスは受肉の情熱的性格を私たちに示します。それは人間に対する神の情熱を示します。クリスマスは神と人間性との婚姻の始まりです。死よりも強い愛の始まりです (cf. 雅歌 8,6) 。

「受けるより与えるほうが幸いである」(使徒 20,35)ことが確かで、あるなら、クリスマスは愛されていることを感じている故の人間の喜びの祝日だけでなく、また神が愛する故の神の喜びの祝日 でもあります。クリスマスは地上での神の誕生であり、天上での人間の誕生です。

「私はあなたに大きな喜びを告げます」 (ルカ 2,10)

clip_image004クリスマスに関するすべてのことは喜びへの招きです。そしてこの喜びの理由は単純なものであり、また人間的な理由では信じがたいことですが、信仰からのみ理解できるものです。つまり、神 が私たちを訪れ、神の肉が私たちの弱さとの粋になりました。最終的に、人間は、人間を愛する方により抱かれます。しかし、このことは完全に新しく、予想できない仕方で起こりました。もし偶像がその「巨大さ」を通して、その「異常なまでの輝き」を通して、そしてその「恐ろしい表情」(cf. ダニ 2,31) を通して、あるいは神が偉大で、恐ろしい、カある、そして栄光ある神、すなわち恐怖を感じさせる神 (cf. 創 3.10) であるかのように現れたとしても、時の充満のうちに (cf. ガラ 4,4) 神は新しく生まれた者の小ささのうちにその偉大さを、粗末な布にくるまれた赤子のうち に魅力的な輝きを、そして馬小屋の寒さに震える赤子のうちに (cf. ルカ1,12) 荘厳な表情をあら わしています。まさに偉大で、ある故に至高で、最高の主はまた、それ以上小さい者は考えられないようなお方でもあります (cf. ルカ 9,48) 。クリスマスに私たちに現れる神は、実際、小さな、無力 な神で、人間を必要としています。弱く、無防備の神が人間にゆだねられています (cf. ルカ 2 ,7) 。また、このこと故に、受け入れられませんでした (cf.ヨハ 1,11) 。それは人間の自由を尊重せざるを得ない愛の傷つきやすさでもあります。しかし、その貧しさ、へりくだりと謙遜のうちに神を 迎え入れる者に、またその傷つきやすさのうちに神を迎える者に、「神の子となる力」 (ヨハ 1,12) を神は与えます。

clip_image006クリスマスはいつも貧しい者と単純な者たちの祝日です。実際、「神は単純な者たちと話すことを好みます」(箴言3,23) 。マリアは喜びへの招きを受ける最初の者でした(ルカ 1,28) 。そして、マニフィカトは謙遜な者すべての賛歌です (cf. ルカ1,46 以下)。羊飼いたちは救い主誕生というよい知らせを受け取り (cf. ルカ 2,10) 、賛美を持って応える最初の者たちです (cf. ルカ 2,20) 。ヨハネは、母の胎のうちにまだいるときに (cf. ルカ1,44) 喜び踊りました。またイエスがその使 命を始める時、先行者(洗礼者ヨハネ)は「花婿の声をきいて喜びました」(ヨハ3,29) 。小さく貧しいフランシスコは、ほとんど目が見えなくなり、ほとんどすべてを失ってしまったその生 涯の終わりに、『被造物の賛歌』を書き、受肉の謙遜、を考え、クリスマスの神秘を観想し、自らの 心を例えようなない喜びのうちにあらわしました (cf. 1Cel 84) 。

マリア、羊飼いたち、ヨハネ、フランシスコのような貧しい者たち、単純な者たち、心の清い者 たちと交わるのはクリスマスの喜びです。神は知恵ある者や熟慮ある者にご自身をあらわさず (cf. ルカ10,21) 、世がさげすむ者を選びました (cf. 1コリ1,28) 。世にある者は、神が彼らのため になしたこと故に喜びませんでした。受けた賜物を値踏みするようなものだからでしょう。しかし、貧しい者と単純な者たちは喜びました。なぜなら、自分たちが神に満たされていることに気づいた からです。そして、一人一人は、各人が神を称える程度に応じて神を受け入れ、そして自らを放棄 することで自分の尊大さを放棄するその程度に応じて神を称えることができます。クリスマスは単 に神が人間を発見するために歩んだ道を示すだけではなく、人間が神を受け入れるために歩まなければならない道を私たちに示しています。神は、豊かになるために、愛を通して貧しくなり、その 貧しさにより私たちを豊かにしました (cf. 2 コリ 8,9)。「羊の偉大な牧者」(ヘブ 13,20) で ある神は羊飼いのように最も取るに足らない者に、マリアのように謙遜な者に、フランシスコのように小さな者に、ヨハネのようにイエスのカが広まるままにするために自ら引き下がる者に、ご自 身をあらわしました。神の愛の偉大さは小さな者になされることのうちにあらわされています。同 じように、人間の偉大さは、 「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に 平安」(ルカ 2,14) と述べて、神を賛美する天の諸カの軍団を生む神に対してそれを受け入れる 余地を残すときに示されます。

「主において喜びなさい」 (フィリ 4,4)

clip_image008兄弟たち、喜びましょう。約束された時が来たのですから。喜びましょう、祝いましょう、神の喜びにあずかりましょう (cf. ゼファ3,14-17)。そうです、私たちは喜ぶのに十分な訳がありま す。教会が経験している困難に直面し(最近のスキャンダルをあげれば十分で、しょう)、私たちの会とすべての修道生活が経験している困難(召命の減少を考えてみてください)に直面し、社会の 困難に直面している(すべての人に、特に非常に貧しい人に関わる経済危機、また私たちが生きて いる深い文化的危機を考えています)という時のしるしを神の目で読み取ることを知らない者は、自分たちが不安に襲われている理由があること、そして人々が悲しみによって引き回され、他者を失望へと導くことを確信しています。彼らの多くにとって、神は抽象的なもので、また役立たずに 見えるでしょう。公には表明しないにしても別の人々は神の沈黙を恨んでいます。上述したような、確かにつらい現実に直面して、「望みをかけていたJ (ルカ 4,21)と述べた復活前のエンマウス の弟子たちと同じ経験を生きている多くの人がいます。しかし、上述したこのような現実を前にして目を閉じることなく、神を通してすべてを読むことを知っている人々は喜ぶ理由をたくさん見つけ出します。このような人々は現実を敗北としてではなく、挑戦、好機そして「カイロス」として 受け取ります。主が私たちとともにおられる。 「そして私たちの中に住む」(ヨハ 1,14) )ため に来られたと知っている故に、すべてを行うのです。そして、主は、毎日、時の終わりまで (cf. マタ 28,21)私たちの隣を歩くために来られました。そのようなことを知っている人は私たちをもう 決して見捨てられた者と呼ぶことはできませんし、私たちの地が荒れ果てたと決して叫ぶことがで きません (cf. イザ 62,4) 。私たちは、私たちが待ち望んでいる方により訪問されました。すな わち、救い主、メシア、主である方が私たちを訪れました (cf. ルカ 2,11)。もし喜びの泉がよく知られ、愛された者を持っているとき、そして他者との出会いと交わりのうちにあるとき、最高善として告白された神 (cf. 被造物の賛歌 3)との深い交わりに私たちが入る とき、信徒としてそして小さき兄弟としてより積極的な理由を持って私たちはすばらしい喜びを経験するように招かれています。それはまた、「冬」の、そして「暗い夜J のさなかでさえ、そのことを通して人が経験できることです。

「あなたたちの喜びが満ちているから」(ヨハ 15,11)

clip_image010この微妙で、つらい時代に、喜びを証言する必要があります。キリストに「より密接にJ 従う私たちは、イエス自身の喜びを分かち合うために招かれています。「私がこれらのことを話したのは、私の喜びがあなたたちにあり、あなたたちの喜びが満ちているからです」(ヨハ 15,11)。十分な 喜びは可能性でも、ユートピアでもありません。私たち信者にとってそれは責任です。もし喜びが「満足さを感じることの発見により規定される」 (H. G. ガダ、マー)なら、もし喜びが完全さの経 験であるなら、その時、神の愛を証しし、開かれたそして感謝の心で神を愛する者は、いかなる者も持ち去ることができないこの喜びを証しすることしかできません。また、あらゆる種類の苦しみ も強い苦しみと矛盾の状況も証しすることができないのです (cf. 2 コリ7,4;コロ1,24) 。それ どころか、そのような人は同じ状況に生きている人々に対してその心を満たすこの喜びを証しする 必要性を見いだすことでしょう。そのような人の生活は歌になるでしょう。すなわち神が私とともにいることへ手を携えて歩むという確実さのうちにその根をおく「喜びの歌」です。その歌は、他 の人々の生活にも希望に開かれた生活も肯定するでしょう。キリストにおいて信じている私たちに とって、クリスマスは悲しみの世の中で喜びを証言する緊急の招きです。しかし、心を散らすこと、 あるいはおそらくはそのような散漫な心を理由として、喜びの本当の理由である存在、すなわちキ リスト・イエスからそのような人を引き離してしまいます。

親愛なる兄弟の皆さん。キリスト者であり、フランシスコの息子である限り、私たちにとって喜びが責任になります。ですから、私たちはこの世界を、キリストにおける信仰から生まれ、神における生活を形作っているこの表現できない輝かしい喜び (cf. 1ベト 1,8-9) の証言から取り去る ことはできません。

ある人たちは次のように問います。私たちはどのように、いつ、そしてどこでその喜びを証言するのですかと。この問に答えるために、私は喜びを示すという私たちの召命の義務について特に考えます。召命は、私たちがそれを求めることなく、神に出会うことにより私たちのもとにやってきます。その結果、私たちは私たちの召命を見いだし、さらにみことばを聴くことにより、秘跡に あずかることにより、そして主ご自身が私たちのためにそのご計画を識別するために私たちの途上 においた手段を私たちが快く受け入れる限りで、神が私たちの心に入ってくることを許します。そ れから、それを現実のものとしなくとも、キリストへの強い情熱が私たちのうちに生まれ、私たち を神に従うように導き、福音を「会則と生活J として受け入れ、従順、無所有、そして貞潔のうち にイエスの生涯を受け入れます (cf. Rb 1,1)。同時に、他の人々への情熱も私たちのうちに生 まれます。特に、謙遜な者に対する情熱が生まれ、また教会に対する情熱が生まれます。なぜなら、 私たちは、貧しく、十字架につけられたキリストの顔に背を向けながらイエスに従うことも、教会 の外でキリストを愛することもできないからです。そして、私たちは心を込めて福音の賜物を他者 にもたらすようにささげられています。なぜなら、私たちは神によって生きていることを感じているからです。そして、サマリアの女性のように、乾きを満たすことが告知と宣教へと変わるのです(cf. ヨハ 4,1ff)。

clip_image012何年も後で、またあらゆる種類の試みの中で、自分の召命の喜びを証言し続ける多くの兄弟たち がいます。無所有で、喜びを持って生き、そしてこのために権力と所有の欲求から本当に自由である 兄弟たちについて私は考えています。彼らは非常に貧しいので、神だけを持ち、そしてそれで満足しています。なぜなら、彼らは「豊かさに満足している 」 (いと高い神への賛美4) ことを見いだしているからです。彼らは貧しいので、福音的自由の喜びを感じています。私は、賜物の論理で生き、そして文化的、宗教的および地理的な障壁のいかなるものも乗り越えて、福音のよい知らせを近くにいる者にも遠くにいる者にもすべての人に無条件にもたらすことに専念している兄弟たちについて考えています。病気により試みられ、あるいはパウロのように「肉に突き刺さった棘」(cf. 2コリ2,7)の痛みを感じながらも、しかし依然として笑い、愛の神によって愛されている と感じている (cf.IFし、と高い神への賛美4) ので周囲の人に喜びを広めている者について私は 考えています。私は、土の壷で (cf. 2コリ4,7) 固有の召命を持ち運ぶことを知っているけれども、自分の弱さのうちに主のカをあらわす (cf.2コリ12,9) ということを確信している者たちが毎日、日中のつらさと暑さを耐え続けていることについて私は考えていますo 彼らは鋤に手をか けますが、後を振り返ることなく(たとえ土が固く、岩と雑草に満ちていて、種が実を付けにくくさせているとしても)。最後に、喜びを持って兄弟たちの賜物を受け入れ (cf.遺言14)、同時に兄弟たちのよいものを別のものに変えてしまうことを望まないで、兄弟的共同体の建設に粘り強く専念する者について、私は考えています。喜びの宣教師である兄弟たち、ありがとう。

これらのこととともに、日常という、無気力という、悲しみという、平凡さという、そして一生 懸命に何かを行う情熱の欠如という危険のうちにある兄弟たちがいます。彼らはそれらを自分の生活の中にあらわしており、表情に現れています。彼らは苦しんでおり、それを望むでもなく苦しまされています。なぜなら、彼らは幸福を感じていなし、からです。このような状況の中で、ある兄弟 が振り返るために歩み始めることを望んで、いるのなら、最初の愛に、すなわち私たちとともにいる神を再発見するために戻る必要があります。祈りに、すなわち主と出会う喜びが湧き出る泉に、無 関心、無気力、そして悲しみという寒さに対する炎に戻る必要があります。私たちが祈るとき、私たちの心は多くの無価値なものから自由であり、また私たちを移ろいやすい気まぐれさから自由に します。さらに、私たちが自分の部屋に入り、隠れて御父に祈るとき (cf.マタ6,6)、私たちは新しい大いなる喜びを証しします。すなわち、他者に対する懇願のそれです。フランシスコを通し てのように、また私たちを通して神の経験は喜びの最初の泉でなければなりません。さらに、教会に、世界に、そしてすべての被造物に開かれた兄弟的共同体の美しさを発見する必要があります。私たちが、修道生活とフランシスカンの生活のうちに、また教会の同様な生活の中で過ぎ越している「冬」は死の歩みのように見られるべきではなく、「刈り込みの時」 のように見なさなければな りません。すなわち、根にまで働きかけるための、本質的なものへ戻るための、また神からの新しい出会いを維持するための恵まれた時なのです。神が残りのことを行い、私たちの生活は「喜びへ の歌J であることへと戻ることでしょう。

「あなたの悲しみを取り除きなさい」 (cf. バルク 5,1)

clip_image014兄弟よ、悲しみに包まれて生きているあなたは、それを取り除きなさい。なぜなら、すでに「あなたの神が支配している 」(イザ42,7) からですし、インマヌエル、すなわち私たちとともにいる神 (cf.マタ1,23)が新しく生まれたからです。日没になり重苦しい夜を過ぎ越しているあなた方は「嘆いたり、泣いたりしてはなりません。(中略)なぜなら、主の喜びはあなた方の力なの だから」(ネへ 8,9-10) 。クリスマスは、私たちが私たちとともにおられる神の喜びを生きているのかそうでないのかという深いチャレンジです。人間性は、キリストの透明さであり、全面的な、喜びに満ちた、そして情熱に満ちた譲与のうちにあらわされるキリスト教的及びフランシスカン的 生活を必要としています。このことは召命の重要な目的になることでしょう。私たちは、私たちが 行なうこと、あるいは述べること以上に存在することを通して宣教師なのです。喜びに満ちている こと、すなわち私たちの憂欝な、否定的、そして悲観的な態度をわくわくし、肯定的で、そして希 望の前触れの態度に変容することは、召命にかかわる司牧及び福音の信頼できる告知の「絶対j 条 件です。フランシスコは、喜びを蒔くことへ到達する道を私たちに示しました。それはキリストを 私たちの心に、私たちの生活に入るままにし、また他の人々と手を携えて歩むことです。まず、主 が私たちに与えてくださった兄弟とともに、私たちは生活と使命を分かち合い、次に神に愛されて いるすべての人とともに、特に謙遜な者と疎外された者と手を携えて歩むことです。

平和と善とともに、あなた方すべてに。 クリスマス、おめでとう。

ローマ、2011年11月8日
福者ヨハネ・ドゥンス・スコトゥスの祝日
あなた方の兄弟であり、奉仕者でありしもべ
兄弟ホセ・ロドリゲス・カルバッリョ、ofm
小さき兄弟会総長