みことばは肉となられた (ヨハネ 1章14節)
神の子は人間のもろさとはかなさをおびて肉となられました。こうして神のご計画は人類にとって見えるもの、理解できるもの感知できるものとなったのです。受肉した神のみことばは神話としてではなく、私達と同じ肉体を持つ現実的人として人類の歴史に入られたのです。こうして砂漠を旅するイスラエルの民と神との臨在の幕屋は決定的に取り替えられたのです。その瞬間から人々の中に神が住まわれる場所として神の臨在の幕屋は、人であり肉であるインマヌエル‐神はわれわれと共におられる者-となったのです。
預言者たちは怒り、裁き、報復、罰の日を告げました。神の忍耐は限界に達し人類は塵の中に隠れる以外に逃げ道が無いかのようでした。全てが過ぎ去った時神がイニシアチーヴをとりました。『ひとりのみどり子が生れ、男の子が与えられた』
のです。いと高き方のおん子、その名は救い主イエスです。これはご降誕の大いなる驚きです。注目すべき日なのです。私達の救い主である神の善意と愛が示されたのです。その意味でもご降誕のニュースと喜びの動機があるのです。神はとこしえの愛をもって愛したのです。
フランシスコは人生のある瞬間に、受肉したみことばの深い意味を悟ったのです。御父が御子をお遣わしになるほど人類を愛されたことを。その時以来この愛の秘儀は彼にとってつねに瞑想の動機となったのです。何故なら、それは敬遠させるものではなく彼を夢中にさせたのです。気品高く聖であり栄光に輝く御父のみことばは、いと高きおん父によって、天使ガブリエルを通じて、天から遣わされ、栄光ある聖処女マリアの胎内を通して我々と同じ人性と弱さを受けられたのです。全てにおいて豊かであったのにこの世にあっては至福なる処女、母と共に貧しくなることを選ばれたのです。愛の神秘、極貧の神秘、人間的な弱さの神秘。それが受肉なのです。ご降誕の日々に私達が祝う神秘なのです。
受肉によって、神のみ子はそれに固執することなく、罪以外は私達の危弱さを全てまとわれ、ご受難と死によって私達を贖うために、全てにおいて豊かであったのに貧しくなられ、私達に仕える者となられたのです。『私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです(ヨ17章26節)』。彼を真の神であり真の人として、栄光ある終生処女、至聖なる聖マリアから生まれるようになさり、囚われの身である私達がその十字架と血、死によって贖われるように望まれました。これこそフランシスコがご降誕をこの上ない祝いとして愛した理由です。これこそご降誕を祝う唯一の理由です。おん父は私達を救い、贖うためにおん子をお遣わしになられたのです。
とにかく、フランシスコは感嘆しただけではなくこの卑下と謙遜の神秘の瞑想を自分がイエスに従う生き方と決めたのです。『フランシスコの最も望んだことは、全てにおいて全てを超えて聖なる福音を生きることでした。教えを完全なまでに履行し、最高の注意を払い、燃えるような心で智恵の限りを尽くして瞑想し、イエス・キリストの跡に従い真似ることでした。数々のみ言葉を心に刻み留め、その行いを思い起こすのでした。とくに、受肉によって示された謙遜、受難によって示された愛は他の事を考えられなくなるほど師父の心を占めました』(1Cel 84,1-3)。人類と絆を結ぶためみことばはケノーシス、無に帰すること、空になること、権利を失った者になることを選ばれました。神が人類に向かった道は、ベトレヘムで始まりカルヴァーリオで終わるのです。馬船で始まり十字架で終わるのです。これこそフランシスコが十分に理解した道でした。その時以来、私たち自身を無に帰し、全ての役職や身分、賜物の理論などを自分自身から抜け出て他人や自分と違う人と出会うための能力として、また神が私達にしたように無償で自分を他に与えるためのものと見なす『小さき者』なる以外に人が神と絆を結ぶ他の道はありえませんし、キリスト者-フランシスカンとしてご降誕を祝う他の方法はありません。