2008年クリスマスメッセージ

民全体に与えられる大きな喜びをあなた達に告げる (ルカ 2章10節)

福音の報告は、主の受肉がもたらした喜びと慶びを際立たせています。最初に天使ガブリエルのお告げを受けたのはマリアでした。そのマグニフィカートは待ち望む(anwium)全ての人々の喜びを予見したものです。洗者ヨハネはまだ母の胎内にいたにもかかわらず救いの到来に喜び踊りました。受肉は全ての人にとって喜びの動機なのです。

『フランシスコも言い知れない喜びを持って神である幼子の誕生を祝いました。』 『この日には全てのキリスト者が主における喜びを祝って欲しいものです』『この日は主がつくられた日。喜び踊りましょう。』 実にフランシスコにとってこの日は喜びの日でした。しかし、ご降誕の喜び、キリスト者にとっての喜びは、現代世界の無意味なバカ騒ぎやプレゼント交換、消費主義とは違います。ご降誕の喜びは、その母で至聖なる処女と共に人間としての弱さともろさをおびながらこの世において貧しくなられた神の子の謙遜さに感嘆し感謝する精神から生まれるものです。ですからフランシスコにとっては、イエスのように全き奉献と献身の道を歩むのが真の喜びでした。すでに貧しさはイエスがわたし達にもたらした救いと贖いの道でした。ご降誕は貧しさの喜びという別の喜びを創出します。ここにご降誕のほんとうの喜びがあります。あるお方が私達を救い、不毛な私達を実りある者としてくださる必要を感じるほどまでに貧しくなるにあります。それは旧約のサムエル書1の子無しのエルカーナとアンナが子供を得たように。私達もイザークやサムソン、サムエルのように神の恵の子、神の子となるのです。

フランシスコがご降誕を理解し生きたこの方法は、重要な典礼暦期間中を私達が生きるために深い再考へと誘います。そうしなければご降誕の祝いはあいまいなものとなってしまう危険があるからです。家族的なふれあいの促進とか親睦、ありふれた兄弟的な交わりを生きること、子供達の目をベトレヘムの馬小屋へ向けさせるだけの美しい典礼儀式などに重きを置くならば、それはわたし達を消費主義や際限のない無駄遣いへと向かわせます。それらは、人類の大半を否応無しに消費主義社会と切り離せなくさせ、その社会が産み出す環境破壊に対しても無関心にさせるのです。多分そこに私達のお祝いの根本的な落とし穴があるのです。誰のものでもない私達のご降誕を祝いましょう。たぶん私達は意味をはきちがえたご降誕を祝っているのかもしれません。もしそれが現実ならば私達は、ご降誕を祝うのにフランシスカン的な祝い方を取り戻さなければなりません。

ご降誕は居心地のいい生き方を捨てる動機、決断の時です。居心地のよさを捨て、幼子とともに居てのみ私達はご降誕を活きるのです。エンマヌエル‐ともにおられる神は、貧しい者であることを認める者に、神を探し見つけ出される方です。自問自答することをお許しください。もし誰かに私達のご降誕について説明することを求められたら、X’マス・プレゼントとか、X’マス・カード、X’マス・パーティーなどこれら商業活動的なものを全部排除した後に、ご降誕について何か話す本質的なことが私達に残っているでしょうか。ご降誕はまた、この世の批判に惑わされることなく聖パウロの忠告に耳を傾けるのにふさわしい時であり、今の代の偽りの価値観に対して預言的で明確な証となるようにこの祝い日を活きることができる時でもあります。

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