喜びなさい
親愛なる兄弟の皆さんに
今、ローマは春が始まったばかりで、母なる大地が装いを新たにしたこの心地よい時季を喜んで迎えています。復活の主日がきました。私達の心は、復活の偉大な告知『あの方はここにはおられない。復活なさったのだ』(ルカ24章6節)が近い事を知り喜びで満たされます。復活の主日がきましたので私達は活動を始めましょう。なぜなら直ぐに『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』(マコ16章15節)と言われます。
主において常に喜びなさい(フィリ4章4節)
ご復活祭なので、今年も、老いも若きも病人も元気な兄弟の皆さん方に力強く『主において喜びなさい』(フィリ3章1節)と叫びたいのです。
復活は命であり喜びですから、深い喜びと歓喜のうちにこそ生きるべきものなのです。思い煩いが有っても悲しんではなりません。歩まなければならない道のりがまだ示されていないにしても恐れてはなりません。復活された方が命をくださるのです。キリストが勝利しました。兄弟の皆さん喜びましょう。
師父聖フランシスコも招いています。彼は福音を愛しました。そして兄弟たちのグループにあって、思い煩いのうちに、特別な旋律で福音を聞きます。吟遊詩人として彼は、神が歓喜であり快活の源であることを見出したのです。-『汝は歓喜であり喜びなり』(LD4)-ですから喜びに心を開きましょう。
命を愛し、復活を信じる人は幸せを感じないではいられないし、結果的にはその歓喜を伝えないではいられないのです。『兄弟達は、悲しみや偽善的な思い煩いは表面に出さずに、主において好意的な微笑を示すようにしてください』(RnB7、16)。
喜びはキリスト者の信仰に特有なものです。誰もそれを奪い去ることは出来ません(cf.ヨハ16章22節以下)し、本当の喜びは、主の復活が私達に与えてくれる意義を体験することから生まれます。
喜びは、希望を満たしながら未来を切り開きます。『私が来たのは、命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』(ヨハ10章10節)。『父が私を愛されたように、私もあなた方を愛してきた。これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである』(ヨハ15章9、11節)。誰も奪い去ることの出来ない喜びは命、復活された方との出会いから生まれます。『弟子たちは、主を見て喜んだ』(ヨハ20章20節。cf.ルカ24章41節)。喜びは無償で救われた事を知ることから芽生えます。『あなた方が救われたのは恵みによるのです』(エフェ2章5節)。
このように、喜びは獲得したものではなく、復活された方、命の主によって与えられた恵みです。ですからそれは聖霊の賜物です(cf.ガラ5章22節以下)。「喜びの書」として知られている使徒パウロの書簡(フィリ4章4‐7節)が述べているように喜びの源は復活したイエス・キリストであり、イエス・キリストにおいて人類が神としてした深い体験にあります。聖ボナヴェントゥーラは喜びが神聖な光に照らされた内的な光であると述べています。私達が獲得する喜びははかなく、もろく、多くの場合真実の喜びと比べるとマンガのようなものです。真の喜びは生きるキリストからの賜物です。解放され、無償で愛された人のものであり、自分の弱さにもかかわらず、心から神の愛のご計画と自分を調和して生きようと試みる人のものです。この意味で完全な喜びはとてもすばらしいです(cf.PA 15)。
キリスト者にとって喜びは、‟ある生き方を知る”という形式にあるのではなく、自分のうちに‟キリストが生きるようにする”、彼によって自分を虜にするという唯一の可能性のうちにあるのです(cf.フィリ3章12節)。イエスの弟子に喜びの処方箋とかなるものは存在しません。私達が今話している喜びは、マーケットで売られているものでも成功のご褒美としてもらえるような、かんたんに手に入れることの出来るものではありません。でも言い知れぬ喜びを満面にした長患いの人に何度も出会ったことはありませんか。私達が今話している喜びとは、なんの思い煩いも魂の暗夜における戦いが無い状態をいうのではありません。兄弟なる太陽の讃歌は復活の歌でもあるのです。長患いの病人や盲目の人や疲れきった人達が復活したキリスト、命の主に出会い、その心から芽生えた歌なのです。これこそが幸せのもととなる喜びなのです。すべてを一新される神との協働者と感じる人の幸せです。これこそが復活によってもたらされる喜びであり幸せです。そして私達はそれを体験し他者に伝えるために呼ばれたのです。
あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい(マテ28章19節)
復活は宣教です。復活したキリストとの出会いの喜びを経験した人は、それを他の人に伝えずにはいられません。キリストと出会った人はそれを伝えたいのです。(ルカ14章33節:マコ16章8節参照)渇きをいやされたサマリアの女はメッセンジャーとなりました(ヨハ4章38節参照)。
愛を肯定するならば、その喜びは必然的に宣教へとつながるのです。喜びの境地に入ったならば必然的に自分の殻から出て行くことを復活は教えてくれるのです。わがままで傲慢、無関心な自分、身勝手で自分のことしか考えず、自分を何様かのつもりでいる私という殻を打ち破るのです。それに復活は、真の喜びを経験した人がそこに留まらず、隠されていた宝物を発見した人のように、伝えずにはいられないのです。復活の喜びは分け与えることでいや増すのです。
今年、第二・千年紀の誕生日を祝うパウロが体験した出会いも同じ結論に私達を導きます。ダマスコへの途中、パウロは復活したキリストに出会います。その出会いが彼に、‟福音を告げ知らせずにはいられない!”(1コリ9章16節)と言わしめたのです。
私達は復活した方との出会いから生まれた喜びを分かち合いたいのです。そうすることで、くだんのお方は今も生き、私達の間に在られる事が確実となるのではないでしょうか。私達はこの命の福音を伝えたいのではないでしょうか。‟はい”と答えるならば、たった一人であっても充全に生きているのでみことばを伝えることが出来るのです。‟gloria Dei vivens Homo”と言った聖イレネオの表現を補足して、‟神により栄誉を帰すことの出来る人は、命に満ち、それをよりよく生きようとする人です”と誰かが言いました。かのお方は、私達が生活に味をつけ、命の司式者となるために命をお与えになりました。また神は十字架につけられた方を主としキリストとなさったのです(使2章26節)。
さらに、復活を祝うことは歩み始めることを意味します。主が先導なさるのです(マタ28章7節)。‟行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる”(マタ28章10節)。主は私達の予備的な議論を受け入れません。説明とか供述などはいつも後付なのです。
兄弟の皆さん、前を向いて歩き始めましょう。復活の道は、足を引きずりながら、心はもっと引きつり、死を宣告されたかのように習慣的に嫌々ながら歩み続けるものではありません。往々にして聖金曜日で立ち止まっているかのような印象を与えていませんか。福音を、悲しげで厳粛な、お葬式のような調子で述べる時そうなってしまうのです。それは、もう存在もしない過去を涙しながら語る時、その涙が私達の間に居られる復活した方の現存を見えなくさせるメッセージになるのです。(ダヴィンチ・コードの)マリア・マグダレナのふしだらな弟子たちが私達の間にいることを信じてはいないでしょうか。
‟今日こそ主のみ業の日”(詩117章24節)。復活によってキリストはその日を、新しい命を私達にくださいました。‟いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい”(1コリ5章7節)。古臭く、カビの生えたこの世界に私達を閉じ込める墓石は常に遠ざけねばなりません。私達を閉じ込めていた古く息の詰まる世界は過ぎ去りました(2コリ5章17節参照)。私達の復活であるキリストは私達を自由にしました。この愛に、光に、自由に生きましょう。そうすることで永遠のメッセージが私達のあかしを通じて今日、歴史の中に入り込むのです。
私達は根源的な恵みを体験するのに都合のいい時代を生きています。復活された方と出会わずに、また私達の間におけるその現存を、喜びを持って証言する以外に、その恵みを体験するもっとより良い方法があるでしょうか。キリスト者としてアッシジのフランシスコはそれをしたのではないでしょうか。今年、私達が恵みによって呼ばれたその召命の賜物を祝いましょう。私達が主から受けた恵みを言葉と行いで、主や今の時代の人たちにお返しするよりもよい方法が他にあるでしょうか。今、福音化-宣教をテーマとする総会の前夜祭です。私達の修道会をいつも特徴付けてきた熱心な宣教精神を思い起こしましょう。‟彼をおいて全能のお方は居られない”(Ord 9)ことを告げ知らせに行きましょう。人類の心を神の賜物と主の霊に開かせましょう。主が私達の心のうちに置かれ、それによって私達の内に留まる希望について明朗なあかしを与えましょう。(1ペト3章15節)。
今の時代に生きる沢山の人達の現状を見ずして、どのようにそれが可能でしょうか。栄光の聖土曜日を聖金曜日なしに語れるでしょうか。イエスの受難と死は、世界中の人々を襲っているこの経済危機で打ちのめされている無数の兄弟姉妹たちの生活のうちに、日々繰り返されています。ここ数ヶ月、失業者や野宿者、飢餓に苦しむ人の数が常に増え続けています。フランシスコは、私達がこれらの人達、特に貧しい人達(RnB 9,2参照)、2006年の臨時総会を思い起こさせる‟小さな人達のうちで最も小さな人達” の隣人となれることを教えています。もし私達がその苦しみを和らげる道を伴に探し求めようとするならば、今年の復活祭は私達と地球規模の危機に遭遇している無数の人達にとって恵みの時となれるはずです。今年の復活祭は私たちに大きな課題を投げかけます。希望のない人に希望を伝え、闇を歩む人に光を伝えることです。
親愛なる兄弟の皆さん、師父であり兄弟であるフランシスコに戻りましょう。この吟遊詩人は肉体の大いなる弱さと精神的な戦いの時期に遭遇しました。病気との闘いと兄弟体に生じた問題が彼を衰弱させました。すでに自力で歩むことができずロバに乗らねばなりませんでした。でもそれを拒むことのできない何かがありました。死ぬまで喜びのメッセンジャーとなることです(cf.Legper 24)。その喜びはいつもフランシスコと一緒にありました。今年の復活祭に、神はこの喜びに参加するように私達を招きます。愛しながら信じることです。愛の種子を蒔く人になりましょう。喜びがその地に芽生えるでしょう。この喜びがより崇高な宣教的行為であることを思い起こしましょう。愛し合うこと、希望を持つこと、生きることへの招きなのです。
よい復活祭を兄弟の皆さんへ!
2009年3月19日。ローマにて
聖ヨゼフの大祝日に
総長 兄弟ヨゼフ・ロドリーゲス・カルヴァーリョ ofm