ご降誕:聖性と使命
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
体をとられたみことばが私達一人一人の心の内に、またフランシスカン共同体の内にお住みになり、私達を喜びで満たして下さいますように。それが実現されることでのみ、ご降誕は私達すべてにとって、人となられた神の祝いであり、
また、御子を通して決定的に子となる恵みにあげられ、代償としてご自分の命を与えることで、自由にされ贖われた人類の祝いでもあります。
ご降誕:人類への愛に突き動かされたおん父が、時が満ちたとき、女から生まれた者として、ご自身のおん子を私達に遣わされたのです。
ご降誕:堕落した人類を前にして、おん子の人格性を通して、自らへりくだられたのです。
ご降誕:私達は自分がまねいた不幸の内に捨てられたのではありません。いと高き者、エンマヌエル、神が共におられるのです。
ご降誕:羊飼い達の様に生まれたばかりの赤子に会いに行きましょう。そして受けた恵みを他の人達に伝えましょう。
受けた恵みを感謝し追憶しましょう
2010年は三つの重要な出来事がありました。
1)600年祭:中国のカトリック教会創始。北京の初代大司教ヨハネ・モンテコルヴィーノが任命されました。
2)500年祭:聖フランシスコ・ソラーノ死去
3)150年祭:ダマスコの殉教者、福者マヌエル・ルイーズと仲間達の死です。
ヨハネ・モンテコルヴィーノは極東の福音宣教のため、イタリアを後にし、福音の文化内開花(インカルチェレーション)の模範となりました。福音への情熱から新約聖書と詩篇を中国語に翻訳し、数多くの教会を建立し、住民のために家屋を建てラテン語やギリシャ語を教え、将来東洋の聖職者となるべく若者達の育成をしました。中国人に帰化しました。
聖フランシスコ・ソラーノはアメリカ大陸に良きおとずれを宣べ伝えるために生国スペインを出ました。彼は独創的・庶民的巡回宣教の模範を残してくれました。14年間パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン(ラ・プラタ、サンタ・フェ、コールドバ)、そして死地ペルーを巡回しました。先住民の言葉を覚え、グァラニー族(原住民インヂオ)の心をとらえる為に、歌やギター、ヴァイオリンを駆使して宣教しました。住民の中に入って、作業場や街頭、教会劇場などで説教しました。
ほとんどがスペイン人のダマスコの殉教者達は聖霊に突き動かされサラセン人の中に行くことを疑いませんでした。当地に着くや否や、兄弟愛を持って、キリストの為に自分達の血を流して、自分たちの信仰を証明しました。彼等は殉教を通じて本当の宣教を私達に残してくれました。イエスが福音で『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』と述べているように、今日においても、全福音的・フランシスカン的使命の頂点であり続ける。
その模範に倣って
他人に起因する栄光を、あたかも自分の物としたがる誘惑に対しての、師父聖フランシスコの忠告を思い起こしながら、自分の生国と文化から遠く離れ、福音を宣べ伝えるために命を捧げたこれらの兄弟達のゆえに、またキリスト者とし、フランシスカンとしての彼等の英雄的な証のゆえに、『すべての善の源であるいと高き主なる神に感謝を捧げましょう。』
この誘惑に陥らないために、これら兄弟殉教者達が残してくれた模範を心から率直に受け入れて、自分の生き方について問いかけてみましょう。こうしてのみ、私達はその栄光を讃える事ができるのです。感謝の気持ちで過去を見つめ、同時に私達を後押しする奉献生活の精神を、希望を持って受け入れるために未来を見つめる時、その精神を実現する目的で、自分の栄光ある過去の最も善いものを深い感謝の気持ちで受け入れたいものです。
天のおん父が聖であるようにあなた達も聖なる者となりなさい
これら殉教者である兄弟達の証を受け入れることは、聖性への呼びかけでもあります。今回彼等を思い起こしているのは、彼等がまじめに福音をもたらそうとしたからです。その生き方が、私達も聖なる者となるために呼ばれていることを思い起こさせます。第二ヴァチカン公会議は教義憲章『諸民族の光』(Lumen Gentium)の第五章 教会について、普遍的な召命は聖性に対してであることを思い起こさせています。私は、すべてのキリスト者に向けて『神の御心は、あなた方が聖なる者となることです』(Iテサ43)と言ったパウロの言葉が、『キリストにより近くで従うこと』を選択した私達にとって個人的かつ緊急的訴えとして受け止められるべきだと思います。私達の召命は、寛大な受諾と刷新から愛の完成、(すなわち聖性)に到達するまででなければ理解できません。
皆さん:生活の活性化の必要性や奉献された人達の使命について話す時、それは私達の生活の意味づけに依拠すると言います。そんな生活は、穏健派による中世期の生き方で満足している非常識であり、表層的宗教観です。福音から出発した歩みの必要性について話すとき、私達は福音の根本を生きる事を拒否することはできません。それは、あたかも私達が規則の現代化である会憲、そして教会の教導権を受諾した生活の形の中に、フランシスコを私達に提案するようなものです。反対に、平穏な生活スタイルに適応するために、福音の預言的言葉を手なずけない必要性を感じます。兄弟姉妹の皆さん、聖霊を受け入れ、新たに生まれる福音的緊急性を感じる時です。個人的にも修道会としてもです。
全て受洗した者、特に奉献した者の根本的生活の目的はこれです。『汝の天の父が聖であるように、汝も聖となれ』(マテ548)。 養成の家で、兄弟共同体で、日常生活のより高い段階への望みを、緊急に努力して高めるようにしてください。各人が自分自身の生活の中で、聖性への呼びかけの光に対して、また、福音的生活の根本に帰ることに対して自問自答してください。
教会や社会は、主が全てに於いて全てであるために、全く主に於いて生きる男女を必要としています。教会や社会は完全に神に委ねる人達、聖性の証人を必要としています。教会は、私達の心を奪おうと試みている現代社会の偶像を打ち破る為に、単純で小さき者達の信仰が必要です。小さき兄弟会と全フランシスカン・ファミリーは、もし変容された方に呼ばれたことを感じるならば、主の変容されたみ顔を想い浮かべる兄弟姉妹達が必要です。私達の修道会と家族には聖性に輝くきら星のような聖人達がいます。それはただ単に年代記のデーターとして残しておくべきではありません。豊かな過去の歴史を伝えることで満足するのではなく、この豊かで素晴らしい聖性の歴史を現代に生きるのでなければなりません。
この交わりの中で、私達の生活と使命の深い再活性化のために聖人達のファンタジーが必要です。正真の命の言葉を渇望する群れの心に到達するために聖なる兄弟達が必要です。独創的で寛大な忠実さの歩みを照らしてくれる光の証が必要です。
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
教会は宣教の為に生まれ、生きています。おん父によって遣わされた子の内にその起源があるからです。彼は最初の宣教師です。私達の修道会もその性格から宣教修道会です。私達は全世界に遣わされた者となるために呼ばれました。人々の間に在るミッション(missio inter gentes)と諸国の民へのミッション(missio ad gentes)とは、私達の生活様式の本質的な要素を理解し再活性化する鍵です。
ヨハネ・モンテコルヴィーノやフランシスコ・ソラーノ、マヌエル・ルイーズと仲間達殉教者の模範は、巡礼者、寄留者として世界に向けて出かけ、生活と言葉で持って、福音の恵みを復旧するための諸国の民(ad gentes‐人々)に向かっての宣教について語っています。もしミッションが、キリストと私達に対するキリストの愛における私達の信仰の正確な案内書であるならば、諸国の民(ad gentes‐人々)に向かってのミッションが修道会のヴァイタリティーの計器であるといえます。
2009年の総会では六つの宣教計画が承認されました。それらは後になって個人的とか経済的な理由で支持できなくなった等というものであってはなりません。ある事は出来ないしまたほかの事には興味がない等とは個人的な無責任です。修道会はこれらの計画に対して真面目に責任を負うことを要求します。
総会で承認されたこれらの計画のどれも忘れないでください。特に16世紀から続くアマゾン区域に於けるフランシスカンの存在。今日は聖地やモロッコに於ける宣教について皆さんの注意を喚起したい。
修道会の最も重要な国際宣教地である聖地での宣教に関して、『各管区は十分な資格を備えた兄弟を常に一人か二人、少なくとも4年間の奉仕のため聖地に派遣するよう努める』という細則を実行するよう願います。モロッコについて語る時、修道会の本来の宣教が最初の殉教者達の証しによって始められた事を忘れるわけにはいきません。この二つの宣教のために人員が足りません。実に緊急の課題です。私達は、歴史的-霊的遺産であるこれら宣教的プレゼンスを放棄することはできません。各管区に何らかの犠牲を強いるにしても、理事達がこのミッションに兄弟を送るように努力してもらいたい。
宣教に関する合意は、生涯養成の一環として初期養成の内から始めるべきです。そのためには、教会が宣教に関して持っている神学的ヴィジョンに照らし合わせ、フランシスカン的召命の一部として、初期養成において、宣教に対する現代的な自覚と感性を養う必要があると私は考えます。私達の若い兄弟達の心に使徒的炎を燃え立たせ、宣教への望みと憧れを奮い立たせなければなりません。『あなた達も私のぶどう園へ行きなさい』と言われたイエスの呼びかけに再び共鳴する必要があります。養成を受けた後でも宣教に出かける事のできるような養成計画が必要です。福音から出発した計画:私達の実生活様式、すなわち観想、兄弟愛、小さき者等の過度な厳格さの無い生活様式に根ざした計画、:ヨハネ・モンテコルヴィーノやフランシスコ・ソラーノ、マヌエル・ルイーズと仲間達殉教者による文化内受容や絆、兄弟愛、独創性、生活を通しての証しなどによって特徴付けられた宣教的霊性を培う計画。
初期養成におけるこの活気は、ミッションについての報告とか、人々の間に在るミッションと諸国の民へのミッションのあり方の管区レベルでの再構築、修道会の宣教計画のために兄弟を派遣する事を生涯養成期間中も続けるべきです。
これらの省察を、絶大な信頼を持って貴方達に提示している間も、私は、主が私達の理性を照らし、またその聖なるみ旨を受け入れ実行に移すために私達の心を動かしてくださる様にと主に願っています。
結論
ご降誕です。そうです。神が私たちの一人になられたのです。神がこの地の居られるのです。天上のお方ではないのですか?神が私達の方に来られたのです。一人の処女から生まれて。
聖なる処女の聖性を望まれるお方が神聖なる方ではないのですか?神が布に包まれているのです。貧しい者の一人となられた方は、神の神聖に満ちたお方ではないのですか?
親愛なる兄弟姉妹の皆さん!私達と共に歴史を刻まれる神が来られました。会うために出て行きましょう。ベトレヘムの幼子がもたらしてくれた聖性の恵みを受けるために、自分の殻から出て行きましょう。『今日、主なる救い主、メシアがお生まれになった』という良いおとずれが無いのです。人々の間に在り、かつ、諸国の民(Inter・ad gentes)へのミッションを果たすために、私達の安楽で保障された生活から出て行きましょう。2009年の総会で決まったように、また神の子の模範を思い起こしながら、少しでも自己指向的にならないために出て行きましょう。出て行きましょう、いと高きお方の子が私達の前を歩かれたのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様
主のご降誕 おめでとうございます。
ローマの総本部庁で。
2010年11月01日 諸聖人の大祝日に
OFMの総長 兄弟ホセ・ロドリゲス・カルバッリョ, ofm.
Prot. 101447