3.「神は神の栄光の輝きである御子を通してわたしたちに語られました」(へブ1・1)
昼のように明るいこの夜、父である神は「御子」においてわたしたちに語られました。時が満ちるに及び、人となった神のことばは神の父性の感嘆すべき啓示であり、それに対して答えることのできる唯一のことはイエスキリストにおいて神の子とならせていただく恵みを受け入れることです。ベトレヘムの神の子は預言者たちや教師たちに連なるもう一人ではありません。かれは「神の愛子」であり、よき訪れとなったことばです。したがって、わたしたちはなぜ神が沈黙を守ったままで、これ以上何も言わないかを理解できるのです。なぜならば、神は、御子であるこのことばにおいてのみ、たった一度だけで、すべてを語ったからです(十字架の聖ヨハネ、カルメル山登坂 第2巻22章参照)。
神は沈黙し、誕生したばかり幼子においてわたしたちに語られます。神はご自分を隠し、小ささの中にご自分を示します。すべてが黙しているように見えるとき、わたしたちは多分、幼子が心の奥に語りかけるまだ話し言葉にもなっていない声を感じ取るのでしょう。すべてが意味を失ったかのように思われるこのときに、生命の言葉はますます偉大な力をもってこだまし、道と真理を示してくれます。み言葉が語るのを望むならば、まず聴くようにしなければなりません。祈りのうちに専心し、人となったことばと福音となった神に耳を向けねばなりません。そうするならば沈黙はこなごなに破られ、意味なきことも止み、天の声が再び歌うことでしょう「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」(ルカ2・14参照)と。なぜならば、メシアにして救い主であるわれらの主が生まれたからです。
兄弟の皆さん、日々、注意深くみ言葉に耳を傾けることがどんなに大切なことでしょうか。手で触れられる人間となった神から受けた力のなんと大きいことでしょうか。み言葉の何と偉大な神秘でしょうか。ベトレヘムの幼子にだけ目を注ぎ、毎日の生活を捧げましょう。わたしたちを訪れる神の言葉に目を向けましょう。そうすれば望み、期待した以上のものをそこに見出すでしょう。このような人間的な方法で愛してくださる神にわたしたちの深い感謝を捧げましょう。この愛を実践すれば、わたしたちは互いに理解し合えるようになり、親しくなり、分かち合えるようになるのです。「そうすればあなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる」(イザヤ58・8参照)。