2007年クリスマス

2.「み言葉は人間となった・・・」(ヨハネ1・14)

時が満ちるに及んで、全被造物はこの誕生した幼子のうちに自分たちの時の充満と成熟に到達したのだと心を動かしたのです。神は穢れなきひとりの処女の胎内に宿られ、こうしてわたしたちにすべての生命を生み出す神の生命を下さったのです。み言葉は生命でした。そしてこの生命は人間の光でした(ヨハネ1・4)。こうして万物の沈黙のうちに、み言葉は自分の住処に来ました。このみ言葉は全世界の闇に住む人々を照らす方として寒空の中をやってこられ、全人類の心を温めたのです。

それから時は流れ、神の言葉は弱まり、光少なく、もろいものとなっていきます。それからというもの、人々は飼い葉桶で布に包まれた幼子のうちに無防備さだけを見るようになります。その傍らには星の現われに導かれてきた幾人かの羊飼いがいます。彼らはマリアが手に差し出す幼子を見ます。ヨセフは新しいアブラハムのように、幼子を守ります。観想し、崇め、考察し、生き、そして祝うつつましい信仰です。素朴な人たちが語りはじめ、世の権力者たちの戸惑う中、世の小さき人々が高められます。毎日、石の心を人間らしい心にする力が働くでしょう。なぜなら、み言葉が肉となって、神が福音となったからです。

イエスのうちに、神はイメージによってではなくイエスによって語られます。神はもはや仲介者たちを立てて救いを行わず、ご自分で行われます。なぜなら、イエスだけが唯一の仲介者だからです。イエスは人格を備え、触ることのできる三位一体の神である存在です。イエスはわたしたちが関わることのできる存在です。わたしたちの言うことを聞いてくださるお方です。その方にわたしたちは従い、その方を愛すことができます。なぜなら、その方は「初めからあったもの、また、わたしたちが聴き、目で見、みつめ、手で触れたいのちのことば」(1ヨハネ1・1)だからです。

この恵みの時、イエスの栄光を観想しましょう。そうすれば、ベトレヘムの幼子のうちに非常に人間的な神を発見するでしょう。そしてわたしたちが「神のように」なるよう招かれるのを感じるでしょう。神のみ言葉を観想するうちに、人間の持つ多様な言葉を聴くことを学ぶでしょう(み言葉の香り、P.5参照)。なぜならば神もまたわたしたちに今日人間として語っているからです。神は特に貧しい人たちや弱い人たち、助けを必要とする人たち、苦しむ人たち、重い皮膚病の人たちに語られます。なぜならば、神の子はただ人々と共にいる人間になろうと思ったのではなく、貧しい人たちや弱い人たち、苦しみに顔をゆがめる人たちの中に共にいようと思ったからです。キリストの貧しさは見事な人間の姿で現われます。それはキリストの友情のしるしであり、人間とかかわるキリストの姿です。そして、わたしたち小さき兄弟はこの世の貧しい人たちの一人になった神を現していくのです。神の栄光は生きている人間ですから、人間が神のために生き、み言葉のうちに意味と生命を見出すようになるまで休むことなくがんばりましょう。
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