2007年クリスマス

1.「初めにみ言葉があった・・・」(ヨハネ1・1)

クリスマスの聖夜に、神の叡智はわたしたちの生命の言葉となったのです。天地創造の初めから御父の御業の協力者として、このみ言葉は、救いの偉大な神秘を悟るように人類を導いたのです。神はご自分の子らを幾世代にわたって教育し、友が友人たちにするように常に語ってくれました(啓示憲章2参照)。そして人類が、神がわたしたちと共におられる主(インマヌエル)であることを(マタイ1・23参照)理解するようにと種々の言葉としるしを使われました。

初めに、神は万物を創り、万物によってご自分を語られました。世界は神によって創られ、神において万物が創られたからなのです(コロサイ1・16)。神の命により、その言葉の力を通して、人間となることにも、万物の冠が与えられることが現実となりました。創造のみ業が完成したので、人間にはちょうど本を読むように、被造物に残された神のメッセージを読み取れるようになりました。

しかしながら、神は歴史においてもわたしたちに語られました。それは救いの歴史であって、恩恵の出来事と罪の経験からなっていますが、それによって信じる者たちが、神が人生の歩みの同伴者となってくださるのは神の民の生き方においてだということを悟るためでした。神は人間と契約を結びました。それは約束の形をした言葉によって与えられ、助けと同伴を保証してくれました。しかし民が神との契約を忘れた時、神の声のこだまである預言者たちの声が天地の創造者である歴史の神への忠実に戻るように呼びかけたのです。「心を尽くしてわたしに立ち返りなさい・・・あなたたちの中からわたしのためにイスラエルを治める者が生まれるからである(ヨエル2・12、ミカ5・1)」。

小ささの中にご自分を示します。すべてが黙しているように見えるとき、わたしたちは多分、幼子が心の奥に語りかけるまだ話し言葉にもなっていない声を感じ取るのでしょう。すべてが意味を失ったかのように思われるこのときに、生命の言葉はますます偉大な力をもってこだまし、道と真理を示してくれます。み言葉が語るのを望むならば、まず聴くようにしなければなりません。祈りのうちに専心し、人となったことばと福音となった神に耳を向けねばなりません。そうするならば沈黙はこなごなに破られ、意味なきことも止み、天の声が再び歌うことでしょう「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」(ルカ2・14参照)と。なぜならば、メシアにして救い主であるわれらの主が生まれたからです。

兄弟の皆さん、日々、注意深くみ言葉に耳を傾けることがどんなに大切なことでしょうか。手で触れられる人間となった神から受けた力のなんと大きいことでしょうか。み言葉の何と偉大な神秘でしょうか。ベトレヘムの幼子にだけ目を注ぎ、毎日の生活を捧げましょう。わたしたちを訪れる神の言葉に目を向けましょう。そうすれば望み、期待した以上のものをそこに見出すでしょう。このような人間的な方法で愛してくださる神にわたしたちの深い感謝を捧げましょう。この愛を実践すれば、わたしたちは互いに理解し合えるようになり、親しくなり、分かち合えるようになるのです。「そうすればあなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる」(イザヤ58・8参照)。
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