清貧の誓願は、フランシスコが望み私たちが約束したとおり、本当に「何も自分のものとせず」生きるよう私たちを導く自由の誓願として理解され、実践されなければなりません。福音宣教的でフランシスカン的な清貧は、主への全き献身と、兄弟たち-特に最も困窮している兄弟たちへの奉仕を妨げたり躊躇させたりするものすべてから、私たちを解放します。この意味で、フランシスコのように貧しい人々だけが、主の驚くべきみ業を受け入れる事ができます。なぜならこの人々は異邦人のせつに求める明日への思い煩いがなく(マタイ6,31-32参照)、「倉」に蓄えられる不要物も、私たちを過去に縛りつける沢山の考えも、そして共同体の周縁部で行なわれる個人主義的なプロジェクトも持たないからです。