東日本大震災報告 - 断片的体験報告(3)

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報告者 佐藤宝倉

clip_image001世の中には、「自分のことをうまく表現できない人たち」や「自分のことを表現するのに時間がかかる人たち」がいる。年齢によって、体の健康の良し悪しによって、社会対する適応性の在る無しによって、障害の有無によって、日本人であるか否かによって、被災の大小によって、被災した住居の位置によって、コミュニケーションのための機器所有の有無によって、交通手段確保の有無によって、「表現する力」や「表現する機会をつかむ力」が異なってくる。

私は石巻にいる間、3週続けて手話サークルに行くことができ、当地のろう者と交わることができた。毎週12~13名の会員が集まっていた。ろう者と聴者の数は、大体いつも半々であった。しかし、ろう者は毎週入れ代わり立ち代わり人が入れ替わっていた。それは、震災後、久しぶりに古くからのろう者の友人に会って自分のつらい体験を話したい、またどのようにその危機を回避できたか、どれくらいの被害にあったかなどを分かち合いたい、そしてお互いの無事を確認しあいたいからであった。この震災を契機に、手話サークルがまた活気を帯びてきた。

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以前、この地域でリーダーとして活躍しておられたろう者の男性は、中央からろう者の被災体験を話して欲しいと請われて講演してきた。彼は、改めて津波ということが他の災害とは違うということを認識したという。「火事ならば、隣の人に「火事だから逃げなさいよ」と知らせてもらって安全な方向に逃げることができる。しかし津波は、数百キロ以上に渡って、一気にやってきた。聴者であるか、ろう者であるか否かを問っている暇はない。一人一人が、自分の命を自分で守らねばならないのである」。「自分の命を守れ、家族の命を守れ、地域の人の命を守れ」と彼は言う。彼自身、海のすぐそばの大きな工場で働いていた。大きな地震であったため逃げようとしたが、上司が指令を待てという。隣の第二工場を見ると作業員がすでに駆け出している。それを見て、彼が所属する第一工場のみんなも逃げ出したという。避難勧告も何もなかったそうだ。健脚な彼が30分歩いてやっと高台に到着、その後10分程して津波がやってきた。その夜彼はいたたまれず、雪が降る中、胸まで3月の寒水につかりながら家族を探しに自分の家に戻った。幸いみんな無事であった。サークルの最後に彼は自戒を込めて言った。「みんな、私たちはお互いに会うためにこのサークルにもっと熱心に通いましょう。」ろう者にとって、自分たちの共同体が如何に必要かを確認しているようであった。 続きはこちら

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